僕が駅に着いたときにはもう、先輩はベンチで待っていた。まずい。十五分も遅刻している。自転車をそのままタイルに乗り上げて、頭を下げる。
「すみません。遅れました」
「いいよいいよ、大したことじゃない」
先輩の口調は軽い。
「どうせ俺と二人だけだしね」
「あれ、他の方々は?」
「なにかイベントがあるらしくって、みんなそっちに行っちまった」
先輩はさらりと説明するけど、予定としては大丈夫なんだろうか。不安を覚える。
「自転車取ってくるから、ここで待っててもらっていいかな?」
「はい」
紙袋を小脇に抱えて、いそいそと走っていく先輩の背中を、僕はじっと眺めていた。しばらくすると、先輩は戻ってきた。さっきまでの紙袋は、自転車のかごの中にあった。
「じゃあ、行こうか」
地面を蹴って加速する。向かう先は、近くの市民病院だ。
……
そのメールが届いたのは、三日前の夜だった。布団に潜ってうつらうつらしているときに、不意にバイブが鳴ったので、僕は目をこすりながら、しぶしぶケータイを手に取ったのだ。
「みっちゃんが病院に運ばれた」
眠気は一瞬で覚めた。差出人を見る。先輩だ。それと同時に、どうしてこんな時間にメールを送ってきたのか合点がいった。
どう返信すべきなんだろう。メールの本文を読んでも、詳しい状況は分からない。ただ、先輩の焦りだけが想像される。みつさんのことになると、先輩はいつでも一生懸命になる。
数分後、メールがまた届いた。
「お見舞いに行こう!」
タイトルだけで、彼女が思ったより軽い怪我だったということが分かった。
先輩とみつさんとの間柄について、僕の知ることは少ない。そもそもこの間先輩から紹介されるまで、僕はみつさんの名前すら知らなかった。ただ、先輩と親しげに話すその人は、僕にはとてもまぶしく見えた。
「彼女ですか?」
初めて会ったその日、僕は先輩にこっそり尋ねてみた。
「へ?」
先輩は素っ頓狂な声を上げた。
「いや、なんとなく、今まで見た中では一番先輩と仲が良さそうだったので」
僕がそう付け足すと、先輩は困ったような顔をした。
「彼女ね……」
重い溜息は、先輩らしくない。しばらく言葉が途切れる。
「まあ、ある意味では正解だ」
「どういう意味で?」
先輩は自分の頭を指さした。
「この中で」
脳内彼女。
それは、先輩なりのジョークだったのかもしれないけれど、僕にはとても笑う気になれなかった。溜息の中身が、手に取るように想像できた。
だからこそ、三日前、先輩が僕らをお見舞いに誘ったときも、どうして一人でいかないのかと追求したくなった経緯がある。いや、冷静に考えれば、先輩の言い分も分かる。きっと大勢で行った方が楽しいに違いないと、みつさんが喜ぶだろうと考えているんだ。
ちらりと目線を上げて、先輩を見る。病院の受付でみつさんの部屋番号を確認している。一瞬、こちらと目があった。先輩は微笑む。
結局、事は予定通りには運ばなくて、ついてきたのは僕というお荷物だけだ。帰った方がいいのかと思うけれど、そんなことを感じさせない先輩の笑顔。
僕は、一体どんな表情を返せばいいんだろう。
指示された部屋は、二階の西側にある、暖かくて日あたりの良さそうなところだった。先輩は荷物を持っていたので、僕がその扉を開けた。
「あら、誰かと思ったら」
みつさんは僕の姿を見て、すこし驚いた様子だった。
「どうも、お元気ですか」
「病院にいるのに元気だって答えるのはどうかと思うけどね。元気だよ」
「そりゃよかった」
先輩が器用に扉を閉める。
「あれ、今日は二人?」
「いやな、他の連中も誘ったんだけどさ、前々から用事が入ってて今日は無理らしい」
「ふうん」
みつさんの視線は、先輩を——具体的には、先輩の抱える紙袋のあたりを泳いだ。
「代わりといっては何だが、お土産を持ってきた」
先輩がおもむろに紙袋の中に手を入れる。
「ジャーン、プリンだ」
「おー」
みつさんがぱちぱちと拍手する。
「どうせなら食べ物がいいかなと思って」
「私って現金な人だと思われてるんだ」
「いや、そういう意味ではなく」
みつさんはひとしきりけらけらと笑ったあと、「じゃあ、いただこうかな」と言って、少し体を起こした。
ベッドの横には小さなテーブルが備え付けられていて、そこで簡単な食事ならできそうだった。
「ちょっと待ってて、飲み物を買ってくる」
先輩が立ち上がる。あっと思ったときにはもう、先輩は部屋を出て行ってしまっていた。僕とみつさんを、二人きりにして。
僕が代わりに部屋を出ていれば、後悔しなくてすんだのかもしれない。先輩とみつさん、彼らを二人にすれば物事がうまくいく、というわけではないが、少なくとも先輩にとっては、満足いく時間が得られたんじゃないだろうか。
「先輩、みつさんのことすごく心配してました」
なにげなく、先輩の話題を振っていた。
「だろうね」
みつさんは苦笑する。
「お見舞いに片っ端から人を誘ってたのに、結局僕しか来られなくて……ちょっと残念です」
「にぎやかな方が良かった?」
「いや、先輩はそっちの方が良かったんじゃないかなって、考えてて……」
言葉が続かない。
「あいつはそういうこと、あんまり気にしてないんじゃないかな。いや、気にしてないっていうか、相手の事情もちゃんと考えた上で、仕方がないって諦めてる」
「そうでしょうか」
「そうだよ、過ぎたことをくよくよ悩んでても仕方ないし、それに基本的に、あいつは優しいから」
「優しい、ですか」
「うん、優しいよ」
……優しいという言葉はナイフだと、僕は思った。先輩は優しい。それはたしかに事実だけど、みつさんが口にした途端、先輩が大切にしてきた何かが壊れてしまうような気がしてならなかった。
先輩が戻ってきた。手には、三本の缶ジュースを抱えている。いつの間にかおごってもらっていることに気付いて、なんだかすごく罪悪感を感じてしまう。
「ありがとう」
みつさんの言葉もまた、優しい。
窓から見える雲が、ほのかに色づき始めていた。
……
「みつさん、元気そうでしたね」
「まあね」
先輩はうなずく。自転車のホイールがチロチロと音を立てる。
「今日はわざわざありがとう。忙しいところ、来てくれて」
「いえ、そんな……」
どう答えればいいのか迷った。できれば全力で否定したい気分だった。僕は今日、感謝されるようなことを何一つしていない。むしろ僕が感謝すべき立場だ。
「ほんとはみんなにも来てもらいたかったんだけど、まあ、急なお願いだったし、無理もないか」
先輩は自分ではどうにもならなかったことを、さも自分の過失であるかのように言う。
「みっちゃんも喜んでくれたしね」
僕は思わずブレーキを握りしめた。甲高い音がして自転車が止まった。驚いた先輩が、振り返る。
違う。そうじゃない。
頭の中で、あぶくが次々と沸き上がった。
大事なのは、先輩自身がどう思っているかだ。僕がじゃない。みつさんがじゃない。予定はうまくいかないし、自分には何一つ見返りがないのに、どうして先輩は平気な顔をしていられるんだ。
泣きたくなった。どうにかして、今日一日を取り戻す方法がないかと考えても考えても、先輩が何も言わない以上、これが最良なのだと思うほかなかった。