この話は僕が在学中の鳥取西高の生徒に読んでもらうことを期待して書いたものなので、西高に関するいくつかの説明を意図的に省いた。
話のモデルとなってくれたろっきゅん、校正に協力してくれた妹に感謝する。
西高に入学できた。やった。うれしい。うれしいぞこれは。
教室に入る。すでにクラスメイトの過半数が着席している。さすがは真面目な西高生だ。僕の偏見かもしれないが、西高生は制服をぴっちり着こなして、黒ぶち眼鏡をかけて、片手には「権利のための闘争」を持っているようなイメージがある。 だから、僕も真似をして「権利のための闘争」を買ってみた。買ってみただけで読もうとすらしてないんだけど、そんなことはどうでもいい。問題は「権利のための闘争」を持っているかどうかであって、それを読破したかどうかじゃあないのだ。
ほら、隣の席の人も本を読んでいる。ブックカバーでタイトルが隠されているけど、おおかた「権利のための闘争」なんだろう。僕は彼の右隣の席に姿勢よく座って、ショートホームルームが始まるまでの時間をずっと黙想して過ごす。西高生は、みんなそうやっている。
「もしかして、その腕時計って、オメガのじゃない?」
「ん?」
唐突に、さっきまで本を読んでいた人に話しかけられた。オメガってなんだろう。昔やったゲームにそんなやつがいたような気がしないでもないんだけど、はて?
「それ、スピードマスターでしょ。なんでそんなの持っとるん?」
左手首を指差されて、ようやくわかった。オメガとかスピードマスターとかいうのは、つまり僕のしている腕時計のブランドのことなんだ。知らなかった。
「おじいさんに入学祝いとしてもらったんだ」
そう説明すると、その人は感心したようにうなずいた。「へぇー」だの「これはすごい」だの言いながら、腕時計を眺め回している。
僕は得意になって言った。
「じいさんの遺産」
「寒いです」
ショートホームルームが終わるとすぐに、僕はたくさんのクラスメイトたちに囲まれた。みんながオメガの腕時計を見たがっている。ぼくは左腕の袖をまくって、天に向かって高らかに突き上げた。
「おおー」
クラスメイトたちの間から、感嘆の声が漏れる。
集まったクラスメイトのうち、六人が女子だった。男子はもっといたけれど、それはどうでもいい。 女子に尊敬されると鼻の下が自然に伸びる。対して、男子にほめられてもあんまり嬉しくない。女子様は神だが、男子はうんこだ。いや、しまった。口が滑った。西高生ならそんな下品な言葉は使わないな。言い直せば、要するに男子は、バナナなのである。
一人のバナナが、僕に聞いてきた。
「それっていくらぐらいした?」
「うーん、百万円ぐらいかな」
おじいさんが買った時計なので、僕は値段を知らない。だから、適当にすごそうな数を言った。それでもみんな納得してくれていたので、これでいいんだろう。
その日から、僕のあだ名はオメガになった。オメガ。オメガ。オメガ。なんてかっこいい名前だろう。好きだ。この名前で呼ばれると、体がきゅうぅんってなる。
この腕時計、実はすごいものだったんだ。そう言って弟にも自慢した。中学二年生の弟。この年頃のバナナにはよくあることだが、僕がどれだけオメガの腕時計を見せてあげても、一言
「あっそう」
としか返さない。けれども僕は知っている。内心では、彼もオメガの腕時計を欲しがっていることを。中二バナナはいつだって、思っていることと反対のことを言うのだ。
飼い猫のタマにも見せてあげた。僕がタマの目の前に左腕を突き出して、前後左右に動かしてやると、タマの首もそろって前後左右に動く。やっぱりタマも、オメガの腕時計には興味津々なようだ。
「これも全て君のおかげだよ」
タマに見せてあげたあと、僕は腕時計を机の上に置いて、毎日優しくなでてあげることにしている。僕がクラスで注目を浴びるようになったことも、あだ名がオメガになったことも、みんなこの腕時計に感謝しなければならない。
オメガの腕時計を見ていると、その立体的に洗練されたフォルムがやっぱりかっこいい。毎日触っていると汚れが溜まるので、時々掃除してやらないといけないんだけど、そんなところも僕は大好きだ。その日の僕も、ふと、掃除してやろうかなと思い立って、机を離れて綿棒を取りにいったのだった。
我が家の綿棒は、いつでも好きなときに耳掃除ができるように、居間に置いてあるのである。
綿棒を持って自分の部屋に戻ると、机の上にタマがいた。タマがオメガの腕時計をちょんちょんとつついていた。オメガの腕時計は、机の上から転げ落ちた。
「あーーーー!!」
僕は駆け出した。オメガの腕時計をキャッチするために。しかし、無情にも、オメガの腕時計の方が先に床に落ちた。僕はヘッドスライディングの勢いもろとも机にぶつかった。いたい。
急いで起き上がって、オメガの腕時計の無事を確認する。見た目には傷一つついていなかった。よかった。
「ってあーーーーーー!!!」
秒針が動いていなかった。なんで? どうして? とりあえずボタンを色々押してみる。振ったり叩いたりしてみる。ストップウォッチ機能も動かなくなっていた。なんということだ。
時刻調整はできるんだろうか。試してみたら、いちおうは、できた。でも一度調整したらそれっきり、もう針は動き出さない。オメガの腕時計は、完全に壊れてしまっていた。
その夜、僕はタマをお風呂に連れていった。タマはお風呂が大嫌いだ。なので僕はこてんこてんにタマの体を洗ってやった。タマは断末魔のような叫び声をあげて必死に抵抗したけれど、それでも僕はタマをシャンプーしつくすことに成功した。これにて、タマへの報復は終わった。
でも復讐って何も生み出さないんだよね。復讐ってほんとに怖い。無我夢中でタマをシャンプーして、そのあと僕の心に残っていたのは、一抹の虚しさだけだった。
いくらタマを責めても、オメガの腕時計はもう二度と動き出さない。ああ、オメガ。僕のオメガ。どうして戻ってきてくれないのか。理由を聞いても答えてくれない。それもそうだ。僕は今、目の前にある現実に、正面から立ち向かっていかなくちゃいけないんだ。
もし、オメガの腕時計をつけずに学校へ行ったらどうなるんだろう。当然、クラスメイトたちは「どうしたんだ?」と聞いてくることが予想される。そこで正直に「壊れてしまった」と口に出したら、僕は百万円のオメガの腕時計を身につけるぐらいのリッチボーイだから、修理に出すのがあたりまえ。でも、本当の僕は、毎月五百円しかお小遣いをもらっていないんだ。これでは修理に出せるわけがない。いずれ修理に出してないことがバレてしまう。そのとき、僕のあだ名はオメガではなくなってしまうんじゃないだろうか。ガメオとかになっちゃうんじゃないだろうか。それはいやだ。ださいぞ、ガメオ。
だから、僕はどうにかして、オメガの腕時計が壊れたことを隠さなくちゃいけない。そのためには、明日もオメガの腕時計をつけて学校にいかなくちゃいけない。僕は決断した。
学校へ行くと、担任の先生から聞かれた。
「オメガの腕時計を持ってるんだって?」
僕は、はいそうです、と答えた。そして、左腕につけたオメガの腕時計を見せてあげた。担任の先生も感心しているふうだった。
今、僕は必死に頑張っている。まだ使える時刻調整の機能を使って、腕時計に添えた右手で密かに秒針を操作している。担任の先生の眼鏡が光った。僕はドキッとした。
「百万円したんだって?」
「そうです」
「お前のおじいさんはすごいな」
それだけ言って、担任の先生は去っていった。僕はほっとして、オメガの腕時計をまた制服の袖の中に隠した。
「おーい、オメガくん」
誰かが僕を読んでいる。この声は女子だ。自然と鼻の穴が膨らむ。
「これっていくらぐらいするか分かる?」
ネックレスの鑑定を依頼された。聞けば、どうやら僕のオメガの腕時計の話を耳にして、自分の家にある高価なものの値段が気になり始めたので、僕に鑑定してもらおうということになったらしい。
ちゃららららららーらー、ちゃらららーらー、ちゃららちゃーらーらーらーらー(ほわ〜ん)
「二十万円ぐらいかな」
またも適当なことを言った。本当は全く分からないんだけど、それっぽい数字にみんな納得してくれていたので、これまたよしとする。なかなかの高値に出品者の女子もよろこんでいた。それを見てまた嬉しくなった。
今日の五校時目は体育だ。西高体操というのをするらしい。音楽に合わせて体操をする。好きだ。
ほかのクラスメイトたちは乗り気ではないようだった。確かに、西高生にダンスは似合わない。黒ぶち眼鏡で片手に「権利のための闘争」を持って、音楽に合わせて踊る集団をイメージすると不気味だ。僕だけがノリノリだった。
チュー、とか、ヘイ、とか言いながら、僕たちは西高体操を踊った。最初は乗り気ではなかったクラスメイトたちも、やっているうちにだんだんノリノリになっていった。最後は全員の動きがぴったりあった。ポーズが決まる。やった。パーフェクトだ。モロ星人は退散していった。
更衣室に戻ったときに、何か違和感があった。けれどもそれがなんなのかは分からなかった。いやな予感がした。教室に帰ると、女子がざわついていることに気がついた。なんだろう。
一人の女子の机の周りに、人だかりができていた。彼女はそう、さっきネックレスの鑑定をしてあげた人だ。そのネックレスが盗まれたらしい。彼女の鞄には、必要以上に荒らされた形跡は見られなかった。推定二十万円のネックレスだけが、すっぽりと盗まれていた。犯人は誰だ? 先生を呼んだ方がいい。そんな群衆の声に押されて、一人の女子が職員室へと走っていった。
「オメガ」
バナナに呼びかけられた。
「お前の腕時計は無事か?」
腕時計? ああ、オメガの。僕は左腕の袖をまくる。そこに腕時計はなかった。
「ああああーーーーーー!!!」
そうだ。何か違和感があると思ったら。僕の愛すべき腕時計が、ない。まさか、盗まれた? いや、まだそう決めつけるのは早い。更衣室に忘れただけかもしれない。体が勝手に更衣室へと向かっていた。僕は馬のように走った。
更衣室には三年生がいて、着替えていたけれど、そんなことも気にせずに僕はオメガの腕時計を探した。どれだけ探しても、オメガの腕時計は見つからなかった。気がつくと三年生ももう体育の授業に行ってしまっていた。僕は喪失感に包まれた。悲しさと切なさで、僕の心はいっぱいだった。
教室に戻ると、クラスメイトたちは一斉に僕を見つめた。もはや授業どころではなかった。
「腕時計は?」
僕はただ、首を横に振った。誰もが口をつぐんだ。重く苦しい沈黙が教室を支配する。
僕が百万円だなんていって自慢したのがいけなかったのかもしれない。あの子のネックレスについてもそうだ。僕が自慢したせいで、あの子も自分のネックレスを学校に持ってきたくなってしまったんだ。
百万円の腕時計と、二十万円のネックレスが盗まれた。そう伝えると、先生たちはすぐに対応を始めてくれたらしい。クラスメイトたちの中には、学校は盗難事件に関してあまり犯人探しをしたがらないぞ、などと吹聴する者もいたけれど、額が額なので、さすがにそんなことはなかった。まもなく警察もやってきた。
まずは現場周辺で怪しい人物を目撃した教職員がいなかったかどうかが確認された。また、盗まれた時間帯に遅刻、早退等した生徒を集めて事情聴取が行われた。残念ながらこれははずれだった。目撃証言はゼロだったし、遅刻した生徒はいたけれど、ほとんどが数十秒程度のちょっとした遅れだった。早退した人たちはみな、自分は学校に残らずすぐ帰ったんだと述べた。僕らのクラスでも、ネックレスを盗まれた女の子自身が一度トイレに行っているだけで、怪しい動きをしていた人物はいなかった。
その後、学校にいる全員が、身体検査と手荷物検査を受けることになった。オメガの腕時計の力は偉大だ。百二十万円などという、僕がデタラメに言った値が一人歩きしていた。
僕は担任の先生に叱られた。どうしてそんな高価な腕時計を学校なんかに持ってきていたのかとか、貴重品に預けるべきだったとか、言われた。だって腕時計は身につけていないと使えないじゃないですか。だって今朝、先生に腕時計を見せたとき、そんな注意は一言も言ってくれなかったじゃあないですか。
たぶん先生も自分が注意をし忘れていたことに後ろめたさがあったんだろう。説教は形だけで終わった。いつもならラッキーだと思うような場面だけど、とてもそんな気分にはなれなかった。オメガの腕時計のことを思うと、胸が苦しかった。
警察の人が折り入って弁解しにきた。話によると、学校での盗難事件というのは、基本的に解決が難しいのだそうだ。学校は人がたくさんいるだけでなく、第三者の出入りも容易で、証拠は残りにくい。色々な言い方をされたけれど、要するにオメガの腕時計は戻ってこないだろうという意味らしかった。
そんなことを言われても、そうなんですかとしか答えようがなかった。どうしようもなく、ただ悲しくなることしかできなかった。
時計の針が六時を回っても、ついに、腕時計とネックレスが見つかることはなかった。警察も諦めて帰っていった。僕は先生の勧めで、家に帰らされた。
家に帰ると両親が待っていた。すぐに「そんな大事な物は家においておくべきだった」だの、「おじいさんに顔向けができない」だの言って責めたてられた。あの腕時計は、もうすでに壊れてしまっているんだ。なんてことを両親に言ったら、両親の僕を責める言葉はもっともっとヒステリックになるんだろう。だから、僕は何も言わずに歯を食いしばるしかなかった。担任の説教には何も心が動かなかったけれど、両親に言われると、突然、涙が堰を切ったように流れ出てきた。流れる涙を止めようと思っても、どうしてもしゃっくりしか出なくなった。両親はそんな僕を見かねて、電話の子機を突き出してきた。おじいさんに直接謝れという意味らしい。僕は、とても電話で話せる心境ではないと思いながらも、背中を押されるままに電話に出た。
「あの……もしもし……僕ですけど」
思わずオレオレ詐欺と間違われそうな台詞を言ってしまったけれど、おじいさんには、ちゃんと伝わったようだった。
「おお、淳か。なんのようかね?」
「実は、僕、おじいさんに貰ったあの、オメガの腕時計を、盗まれちゃって……」
「オメガの腕時計?」
おじいさんは考え込んでいる。あまりにも長く考え込んでいるので、もしかして、オメガの腕時計が盗まれたというショッキングな事実のために、おじいさんの心臓が止まってしまったんじゃないだろうかとか、そんなことを考えた矢先だった。
「ああ、あのニセモンのことか」
「ほえ?」
僕はすっとんきょうな声をあげていた。
「あのオメガじゃなくてガメオって書いてあるやつじゃろ? あげなもん盗まれたって気にせんでええで」
「ええええっと、じゃあ、あの、もしかして、机に落としただけで壊れたのは……」
「ああ、所詮パチモンだけえなあ。本物だったらそりゃなあ、オメガの時計はNASAにも採用されたっちゅうぐらいだけえ、そんなことで壊れたりはせんわいな……ん? まさかお前、あれを本物だと思っとったんか?」
涙がどっかにふっとんだ。僕は黙って受話器を元の場所に返した。両親が不思議な顔をして僕を見つめた。僕は言った。
「オメガじゃなくて、ガメオだったよー!」
両親の顔が一気に明るくなった。お母さんが僕を抱きしめる。
「どうりで、お父さんがこの子にそんな高価な物を与えるなんて、おかしいと思った!」
ともかく、被害がなかったことが分かって嬉しかった。振り返ってみれば、ばかばかしい出来事だった。結局僕が壊したり、盗まれたりして、一喜一憂していた腕時計が、本当はただのガメオの時計だったなんて。
あの子のネックレスが戻ってきていないことが少し気がかりではあったけれど、願わくばあれもニセモノであってくれればなあ、なんて思ったりした。さすがにそんなことはないか。でも、二十万円も価値がある物ではないと思うな。なんてったって、僕の鑑定は完璧に外れるのだ。百万円のオメガが、ニセモノのガメオだったのだ。
僕は家の中をぴょんぴょん飛び跳ねながら、このばかばかしさを全身で表現して回った。途中で弟に会った。僕は弟に
「オメガじゃなくて、ガメオだったよー!」
と言った。弟は、
「それはすごい」
と言った。中二バナナは思っていることと反対のことを言う。僕は悲しい気持ちになった。
タマにも言った。
「オメガじゃなくて、ガメオだったよー!」
タマはぴょんぴょんジャンプする僕に合わせて、首を上下させた。
翌朝、僕が学校に行くと、クラスメイトたちに囲まれた。
「残念だったな。犯人が見つからなくて」
僕はなるべく落ち込んだ表情を作ってうなずいた。オメガが実はガメオだったことは黙っておいた。なぜなら、もしも僕がここで「オメガじゃなくて、ガメオだったよー!」なんて言ったら、次の日から僕のあだ名はガメオになってしまうことが予想されるからだ。
ネックレスを盗まれた女の子にも、その後の進展を聞いてみた。彼女はそれほど悲しい顔をしていなかった。どうしてなのか、理由を尋ねると、
「私は知らなかったんだけど、実はあのネックレス、前々から盗難保険に入ってたらしくって」
とのこと。
さすがに本物のリッチガールは言うことが違う。というわけで、今度から僕もこの言い訳を真似することにした。すなわち、クラスメイトから「御愁傷様です」と言われたあかつきには、
「いやあ、実はあの腕時計、盗難保険に入ってたから、実害はなかったんだよ」
と答えるのだ。そして「またオメガの腕時計を買うの?」と聞かれれば、
「やっぱり盗まれるのって気持ちのいい物じゃないからね。もう学校に腕時計はしてこないことにするよ」
と答える。これで、僕はいつまでもこのクラスのリッチボーイでいられるだろう。
ふと、僕の脳裏に、ある不穏なひらめきがよぎった。いや、そんなはずはない。しかし、そう言って否定してしまうにはもったいないような、そんなひらめきが。
もしかして、この盗難事件の犯人は、あの女の子だったんじゃないだろうか。あの女の子が、保険金を手に入れるために、わざとオメガの腕時計とネックレスが盗まれたように見せかけたんじゃないだろうか。
普通、学校でネックレスが盗まれれば、なぜ彼女がそんな高価なネックレスを持ってきていたのかが疑われる。しかし、今回はその点が問題にならなかった。僕の腕時計が格好のカモフラージュになっていたからだ。僕がオメガの腕時計を持ってきていたから、彼女のネックレスも自然なこととして受け入れられた。僕が百万円のオメガの腕時計をなくしていたから、二十万円のネックレスはその陰に隠れて、それにかけられていた保険にまでは追及の手が及ばなかった。
ネックレスは自分で隠せばいい。オメガの腕時計も、あの一時間はずっと更衣室にあったのだから、トイレに行った隙にでも盗めばいい。ネックレスと腕時計は久松山のどこかにでも放っておけば、まず見つかることはないだろう。
……しかし、僕はこのひらめきを全て忘れることにした。証拠がない。動機もない。リッチガールがわざわざ自ら保険金目当ての盗難を演じるようなことがあるだろうか。
今から久松山を探して、腕時計とネックレスが見つかれば、その証拠にできるかもしれない。しかし、僕はわざわざそんな無駄な努力はしたくない。だってあの時計はオメガじゃなくて、ガメオなのだ。壊れたガメオなのだ。僕はガメオとしてではなく、オメガとして生きることを選んだ。真実を捨て、虚構の自分を演出する道を選んだ。
だから僕は「権利のための闘争」を読む。黒ぶち眼鏡をかけ、制服をきっちり着こなす。そして、オメガとして、尻から出たバナナとして、女子の足元にも及ばない存在として生き続けるのだ。