逆さま人間

 こないだ隣町で地震があったときだって、私はふうんって感じでテレビを見ていた。親戚が土砂崩れに巻き込まれて死んだって聞いたときも、危機感って言うのかな。そういうのはあんまり感じなかった。

 だから、今の私が文字通り天地がひっくり返るようなことになってるってのは分かるけど、感じてない。っていうか、少なくとも怖くはない。風景の上下がいつもと逆だけど、それって大変なこと、なんだろう、みたいな。

あれだ。映画館で大怪獣が暴てるのを見てるのに近い。子どもの頃は泣いちゃったかもしれないけど、別に今だと普通に見れるし、フィクションはフィクションって割り切れるから、別に普通。

 実際、フィクションにしても奇妙ではあった。だって上を見たら畳の上に机があって、そこに宿題が乗ってて、まるで接着剤で貼り付けたみたいに全然落ちてこないの。普通、私が天井に向かって落ちてたら、他の物もこっちに落ちてくるでしょ。でも机とかペンとかはいつもどおり机の上にある。私だけが逆立ちしてるのかと思いきや、私の足はちゃんと天井についてる。縁側からはジリジリとアブラゼミの声。

 私だけが、この世界の法則から見放されている。

 私は立ち上がる。足元には、花みたいに生えた電灯がある。壁に向かって歩く。梁と桁が飛び出しているから歩きやすくはないけど、移動できないってほどじゃない。

 ふすまの取っ手はちょうど目と同じ高さにあった。ふすま全体が妙に高い位置にあるから、隣の仏間に入るためには、敷居を大きくまたがないといけないんだ。仏間に入ってふすまを閉める。すると。今まで聞こえてた蝉の鳴き声がかき消えて、家の中はどこまでも静かになった。暗い部屋に逆さまの仏様が浮かび上がった。足元にはおばあちゃんの遺影が転がっていた。

 ここに来て、初めて私は恐ろしくなった。それは死を意識したとかじゃない。なんていうか、クラスで仲間はずれにされる感じ? 逆さまに吊り下がった仏様を見たら、ひょっとして私はもう人間じゃなくなってて、だから神頼みしても見捨てられるんじゃないか、みたいな、セカイだけじゃなくて、セケンからも見放されてるんじゃないか、みたいな、そういう気分になったのだ。

 だから私は一刻も早く他の逆さま人間に会いたかった。

「おかあさーん」

 返事はなかった。私は仏間の真ん中から生えてる電灯の糸を引っ張り上げて、電気をつけようとしたけど、つかなかった。たぶん電気が止まってるんだ。それからもう一回おかあさんを呼んだけど、声は虚しく仏間に響いただけだった。 もしかして、おかあさんたちはどこかに出かけてるんじゃないかな。これだけ呼んでもリアクション一つないってことは、おとうさんと車で買い物にでも行ったのかもしれない。そしたら、どうなる? 車の中で重力がひっくり返ってたら、すでに死んでるかもしれない。じゃあ、家の中で助けを待ってるのは得策じゃない。

 外に出て、街の人たちと合流した方がいい。

 仏間にはお母さんしか使ってないタンスがあって、手を伸ばせば何とか届いた。タンスの取っ手を握ったまま思い切り体重をかけると、タンスは少し宙に浮いて、引き出しがすごい勢いで手前に飛び出した。

「うわあ」

 私はびっくりして手を離した。引き出しとタンスはすごい勢いで上に引き戻された。タンスが畳にぶつかる衝撃で、家全体がずしんと揺れた。それから、タンスの中に入ってた数珠やらネックレスやらがバラバラと畳の上に散らばった。私は天井に手をついて、ただただビックリしていた。それから、ひと呼吸置いて、ちょっと笑った。

 なんだか妙に懐かしい。例えるなら、そう、ビート板をプールの中につっこんだときのあれと似てる。あの、何が面白いかよく分からないけど、すごく下らないんだけど、とにかく、その笑いのおかげで私は少しだけ気が楽になった。なんだか他の物も無意味に触りたくなった。

 仏壇に触る勇気はなかったので、電灯に触れた。傘の下半分はほこりが積もっていて汚かったけど、上半分は綺麗だった。手を離すと電灯が浮き上がって、ケーブルの張力でゆらゆらと揺れた。

 他に面白そうな物はないかな、と思って周りを見回すと、タンスの横に背の高い棚があることに気付いた。さらにその上には、誰が使っているのかわからない豚の貯金箱がある。手に取ってふたを開けてみると、あっという間に小銭が豚の腹から飛び出して、畳の上に散らばってしまった。

 なんだか手に取るもの全てが軽すぎて、どれだけ散らかしても歩く邪魔にならない、それってある意味便利かもしれない。

 それから、なんとかして外に出なきゃという、最初の考えを思い出した。

 私は壁に足をかけて、もう一度タンスの引き出しを開けた。母の小物を使って身支度する。髪ゴムがあったのでとりあえずポニーテールにした。日焼け止めクリームも塗った。ほんとはスカートも履き替えたかったけど、あいにくタンスに洋服は入っていなかった。

 靴下を脱いで裸足になる。脱いだ靴下は私と同じ天井に落ちた。邪魔にならないよう、そっと棚に乗せる。豚の貯金箱の裏面にある靴下。完成したふしぎな絵面に私は満足した。

 一応、出かける前に居間とキッチンにも寄った。けど、やっぱりおとうさんとおかあさんはどこにもいなかった。エアコンもテレビも動いていないから、二人はどこかに出かけたんだと、そう思うことにした。

 居間には機械式の時計があって、電気が止まってもメトロノームのように動き続けている。反転した時計の針を読み取る。十五時十五分。窓を開けると、夏の日差しが部屋の空気に染み渡った。

 窓の淵から庇の裏へと出る。庇の裏に両手をかけたまま、さらに下へ、二階の軒下まで足を降ろして着地する。

 軒の上は木が等間隔に敷かれていて、天井以上に歩きづらい。私は体を漆喰の壁にゆだねながら、少しずつ前に進んだ。軒は天井ほど丈夫じゃないみたいで、私が一歩進むだけで雨樋がかたかたと揺れた。

 炎天下だった。真下には青空と太陽が見えた。この青空の向こうには成層圏があって、その先には宇宙空間があるっていうから、少しでも踏み違えたら私はロケットみたいに飛んでいって、宇宙の塵になるのかもしれない。それを思えば、慎重になりすぎることはないよね。 雨樋に沿って歩いて、道路の側まで辿り着く。私の家は通りの角にあるから、そう簡単には隣の家までいけない。行くとしたら、電線を伝うしかないのは分かってた。今は電気が止まってるし、ちゃんと絶縁もされてるから大丈夫なはず。そう信じて、右手で送電線の根本を掴んで押し下げると、山なりにたるんでいた電線がまっすぐになった。

 手足の指の間に電線をしっかりはさんで、ちょっとずつ、芋虫みたいに前進した。これ、ひょっとしてヤバいんじゃないの。頭の中で赤が点滅してる。電線は細くていつ切れるか分からないし、今更後戻りも出来ないし、なんでこんなことはじめちゃったんだろうっていう後悔がみるみる広がって、手足を汗で濡らす。それでも、進み続けないといけない。

 向かいの電柱につく頃には、私は早くも戦意喪失しかけていた。こんな調子で隣の家まで行くなんて、ちょっと考えたくなかった。

 電信柱の梯子を掴んで、変圧器に腰を据えた。そうしてぼんやり遠くを眺めたけど、黒々とした電線はピンボケしても視界から消えない。

 頭上ではアスファルトが、じりじりと太陽に焼かれていた。草むらからショウリョウバッタが現れて、ぴょこぴょこ跳ねているけれど、私のところには永遠に来てくれそうにない。

 そんなとき、後ろから自転車のホイールが回る音が聞こえてきた。私は道路を見上げた。自転車が止まった。

 白いカッターシャツの少年が、私の真上でブレーキを踏んでいた。少年?いや、私と同世代くらいかもしれない、見たことがない顔なのは確かだった。彼も私を見上げていた。

「なにをしているんだ?」

「ちょっと、おかあさんを探してて」

「ふうん、大変そうだな」

 彼は電信柱の横に自転車を留めると、するすると電信柱を登り始めた。すぐに私の側までやってきた。彼の両腕ががっしりと私のおなかを掴んだ。

「そのまま足を離せ」

「うん」

 私はゆっくりと電柱を蹴った。

 私たちは空中で旋回しながら、フワフワと電線のそばを漂った。私たちの重さがちょうど釣り合って、無重力になったんだ。私は彼のズボンを両手で抱え込んだ。

「すごいね。このまま飛んでいこうよ」

 彼は電線に手をかけて、力強く引っ張った。

 無重力の私たちは滑るように飛んだ。全身が風の中にいた。家や道路や川や田畑が次々と小さくなって、地平線に消えていった。

 彼は聞いた。

「お母さんはどこにいるんだ?」

「それはもういい。こうして二人で漂っていられれば、それでいい」

「そうか」

 それだけで、彼はもう何も聞いてこなくなった。彼は別に特別な人じゃない。たまたま通りがかって、たまたま体重が同じだったっていう、ただそれだけなんだけど、そういう前提は重力と一緒にどこかに行ってしまったみたいに、私たちはこの感覚に陶酔していた。

 しばらくすると、私たちは風に流されていることに気付いた。周りに何もないので、軌道を修正することはできない。私は彼のズボンをぎゅっと握りしめた。入道雲がどんどん成長して、私たちを見下ろしていた。

「あそこまで行ったら、休憩しよう」

 私たちの進んでいる方向に山が見えた。山のふもとに一本の木が生えていた。私の十数倍はあろうかという楠の木だ。木陰に入ると、彼はその太い幹を掴んで動きを止めた。

 少年はそのまま一番太い枝に降りる。私はもう一つ空に近い枝に降りる。私たちの顔が、ちょうど同じくらいの高さになる。

「最後の方、ちょっとどきどきしたね」

 そう伝えると、彼は照れくさそうに腹をさすった。

「なんか、おなか空いちゃったな」

 私もうなずく。しがみついていただけだったけど、それでも結構疲れていた。スポーツの試合のあとのような、心地よい疲労だった。

「さっき向こうにコンビニが見えた」

「じゃあ、そこに行こう」

 私はもう一度彼に掴まろうとしたけど、彼の手が私を制した。

「一人で行く。雨が降りそうだ」

 見下ろすと、木の葉の隙間から灰色の雲が空を覆っているのが見えた。

 彼は一人で木を降りて、じゃあ、と言って走り去っていった。その瞬間、なんだか急に私の中に寂しさが舞い戻ってきて、それでも私にはどうすることもできなくて、指で木の表面をなぞったり、足をぶらぶらさせたりした。

 まもなく夕立が降り始めた。最初のうちは木が私を雨から守っていてくれたけど、木の葉を叩く雨粒は次第に大きくなっていった。葉っぱから雨粒がぽつぽつ垂れた。私は雨が入らないように、スカートのたもとを抑えた。だけど、次第に風も強くなって、横殴りの雨が木の中へ容赦なく入ってくる。

「さむい」

 雨水を吸った髪の毛が、地面に引かれて上を向く。彼のいた木の枝に、ぽたぽたと雫を落とす。

 どうしてだろう。このときだけは、一人でいる自分が許せなくなった。私の服がもっと雨を吸って重くなってくれれば、少しでも普通の人間に近づけるのかもしれない。

 私は幹から手を離して、少しずつ枝葉に近寄った。もう少し雨に当たりたい。そうしたら、湿った枝はあっけなくぽっきり折れちゃって、私の身体は空へと落ちていった。